特集
2023.02.24
「選択肢があることでリスクを相対化できる」アサダワタルさんが語る「Anywhereな人」のリスクの捉え方
「変化」は、常にリスクと隣り合わせかもしれません。しかし、意図して変化を続けるからこそ、新しいリスクとの向き合い方ができるという人もいます。
文化活動家でアーティストのアサダワタルさんは、NPOや寺院、福祉施設などに関わりながら「社会活動としてのアート」を展開してきました。
その活動内容は多様で、あるときは、表現活動の一つとして自宅の一部を無理なく他者に開放する「住み開き」を行い、またあるときは福島県いわき市に通い、現地の方々の「避難区域」における思い出を音声と音楽に残したりと、活動が変わるたびに自分の環境も大きく変化するような、複数の働き方と拠点を持って活動されてきました。
彼の生活における変化の多さは、家族が4人になった現在も変わりません。ご結婚された2009年から今日に至るまで、さまざまな肩書きを以てアートの場に携わり、大阪、滋賀、東京・小金井、東京・品川と新潟、そして大阪と新潟の2拠点と、家族や仕事の状況に合わせて、住む土地を変えてきました。
そんな変化に富んだ生活を送るアサダさんに「変化と保険」についてお話を聞こうとした私たち。アサダさんは「そもそも、変化を前提としている人と、していない人とでは、リスクへの向き合い方が違うのかもしれません」と語ります。
アサダさんの活動と生活を振り返ることで見えてきたのは、「Somewhereな人(変化を前提としていない人)とAnywhereな人(変化を前提としている人)、それぞれに異なるリスクの捉え方がある」という、これまで考えてこなかった新しい前提でした。
話を聞いた人:アサダワタル
1979年生まれ。大阪出身・大阪⇔新潟在住。
文化活動家/アーティスト、文筆家、教員。社会福祉法人愛成会品川地域連携推進室コミュニティディレクターを経て、現在は近畿大学 文芸学部文化デザイン学科特任講師も務める。2000年からバンド活動を始め、その後、関西でNPOや寺院に勤めながら「社会活動としてのアート」を展開。2010年にフリーとなり、全国各地に滞在し、企画や執筆を手がける。主な著書に『住み開き 家から始めるコミュニティ』(筑摩書房)、『コミュニティ難民のススメ 表現と仕事のハザマにあること』(木楽舎)、『想起の音楽 表現・記憶・コミュニティ』(水曜社)、『ホカツと家族 家族のカタチを探る旅』(平凡社)など。2016年から福島県いわき市の復興公営住宅に通い、住民と創作したCD作品 アサダワタルと下神白団地のみなさん『福島ソングスケイプ』(GrannyRideto)が、グッドデザイン賞2022を受賞。
Somewhereな人とAnywhereな人ではリスクの捉え方が違う
――アサダさんの活動を拝見していると、住む場所や仕事、家族とのあり方が数年ごとにどんどん変化していますよね。変化の多い生活をしている方は、「リスクとの向き合い方」をその都度更新されているんじゃないかと思っていて。今回は、そんなアサダさんが何を「保険」とし、どのようにリスクに向き合っているのかをお聞きしたいなと思っています。
もしかすると、そもそもの「リスクの捉え方」が人によって違うかもしれませんね。
僕は、世の中の人は「土地を離れない前提で生きている人」と、「土地を含めて変化していくことが前提にある人」との大きく2つに分けられると思っています。Somewhereな人と、Anywhereな人とでも言えるでしょうか。
仮にそう考えると、僕は後者のAnywhereな人に当てはまると思っていて。これは良し悪しではないのですが、両者では視点が違うので、リスクの捉え方も違ってくると思うんです。
――たとえば、アサダさんご自身の「Anywhere」な暮らしとはどんなものですか?
僕は20代の頃から仕事や拠点をいくつも持ちながら活動してきました。
拠点に関して言えば、20代の頃はずっと大阪に住んではいたものの、月4回くらいは仕事で東京に行っていた時期もあったんですね。そのときは友達が住んでいた浅草のシェアハウスを借りて、東京と大阪を行き来していました。それ以外にも、青森の八戸で2ヵ月間の滞在制作をしたり、全国各地のアートプロジェクトに関わったりと、場所を転々とすることが日常でした。
東京の仕事が増えてきたら、東京に拠点を移したほうが便利かなという風に考えますし、一つの土地に必ずしも住み続けなければいけないとは思っていません。結婚して子どもが産まれた現在は、以前よりは動く速度感は変わりましたが、基本的な考えは変わっていないですね。
――確かに、一つの土地に住み続ける前提で生きているSomewhereな人とは、見える世界が違いそうですね。
こう言うと、「実験」している、変わったライフスタイルを送っていると捉えられることもあります。ただ、僕にとってはこれが「特別」なことではないんですよね。
――変化の多いアサダさんの「Anywhere」な暮らしのお話をさらに詳しく聞かせていただくことで、リスクの捉え方の違いが見えてきそうな気がします。
家族のあり方に合わせて環境を変えるのは自然なこと
――アサダさんはご結婚されてからも、いろいろな土地にお住まいになっていますよね。
結婚したのは2009年で、パートナーと猫2匹と大阪で暮らし始めました。ただ、パートナーとは結婚前から同棲していましたし、生活は大きく変わりませんでした。
2010年にフリーランスとして独立してからは全国各地からご依頼をいただくようになったので、家にいない時間が独身のときよりも長かったかもしれません。
その後、2012年に妻が携わっていた大阪のアートプロジェクトが自治体の都合で終わってしまったことと、妻が体調を崩したことなどが重なって。気分転換を兼ねて滋賀の大津に引っ越したのを機に、少しずつ「家族というユニット」として生きていく感覚が芽生えてきたかもしれないですね。
とは言え何かが大きく変わったわけではなく、2013年11月に長女が産まれてからしばらくは滋賀を拠点にしていましたし、僕自身は東京の仕事が増えていったので、東京の新橋や初台に家を借りて、2拠点生活に近いかたちで活動していました。
その後、東京・小金井に家族みんなで移り住んだ1年半と、新潟・妙高と東京・品川の2拠点生活を経て、現在は新潟と大阪の2拠点で暮らしています。
――その時々の状況に応じて、フィットする土地や選択をされてきたんですね。「家族というユニット」として生活するようになって、変わったことはありましたか?
当たり前のことかもしれませんが、組織を経営するように、ルールを決めて共同でやっていくことが増えました。小さなことで言えば、どちらがお風呂に入れるかといったこともですし、子どもが成長するにつれて、保育園や学校のことも関わってきます。
ただ、「家族のカタチ」や「子育てを通じてどんな生活を営んでいきたいんだろう」といったことについて本格的に考え始めたのは、長女が3才になって、後に次女が妻のお腹の中にいることがわかる少し前、2017年前後くらいからですね。
――どんな出来事がきっかけだったのでしょうか?
当時は滋賀に住んでいたのですが、東京を拠点にした大きなプロジェクトが決まりそうだったので、「よかったら、家族で東京に住まへん?」とパートナーに相談したんです。そしたら、「事情はわかるけど、ちっちゃい子どもおって、なんでわざわざ東京に行かなあかんの」と戸惑われて。
いま思えば、戸惑われて当然だったんですよね。
確かにパートナーは東京に縁があるわけでもないですし、滋賀でしている仕事も辞めなければいけない。長女の保育園を待機児童激戦区の東京で探し直さなければいけないし、二人目の子どもも授かれたらいいなとも思っている、という状況だったので。
それでも最終的には、東京行きを進めることになって、その間にパートナーが次女をめでたく妊娠・出産し、2017年秋に東京・小金井に家族4人で住み始めました。
その後の詳しいことは『ホカツと家族 家族のカタチを探る旅』を読んでほしいのですが、東京の待機児童激戦区で保活(※)を経験したり、慣れない土地に住むことでパートナーに負担をかけたりと、いろいろなことがあって小金井生活は1年半で限界を迎えました。
※子どもを保育園に入れるため保護者が行う活動のこと
そして、パートナーと話し合って「実家のある新潟で子育てするのはどうだろう」と同じ意見が出てきました。それが当時二人にとって最適の答えだったんですね。そして、パートナーと子どもたちは新潟へ行き、僕は仕事のある東京に残る選択をしたという経緯があります。
「家族でどのように生きていくか」を今まで以上に考えた、この一連の出来事をきっかけに、「家族というユニット」をより意識し始めるようになりました。
――「家族というユニット」への意識が高まっても、Anywhereな生き方は変わらなかったんですね。むしろ、「ユニットとしてのAnywhereな生き方」を模索されているというか。
僕たち家族が小金井の1拠点から、新潟に行くチームと東京に残るチームとの二手に分かれたことは、「一定期間、別々に暮らしながら家族生活を営んでみましょうというミッション」だったと捉えています。
パートナーにはパートナーの事情があるし、子どもたちには子どもたちにとってベストな環境があるし、僕にも仕事の事情がある。そう考えたときに、そのときはそれがベターだと考えてそうなっただけというか。ベターなだけであってベストだとは思っていないわけですから、必ず定期的に「この生活は続けられそうか」「いつ合流するべきか」は話し合ってきました。
もちろん今後、子どもたちの成長や僕の仕事などに変化があれば、また環境を変えることもあると思います。いま実際に、近々関西で合流する計画を進めています。
家族のうちの誰かが単身赴任をして離れて暮らす家庭自体は、すごく珍しいわけではないですよね。ただ、僕たちの場合は僕の仕事の都合が大きいにせよ、それだけでなく、その時々に応じてパートナーや子どもにとって一番いいと思った選択をしたいと、悩みながら模索して、そうしてきました。逆に言えば、それが成功しているとも思っていませんし、僕のこういった考えに家族を巻き込んできた面も正直あります。
それでも、これまでなんとかやってきて「家族というユニット」が鍛えられてきたとは思います。だから、繰り返しになりますが、僕としては特別なことをしているつもりはないんですよ。
選択肢が増えると、リスクが小さく見える
――アサダさんのAnywhereな暮らしが少しずつわかってきました。そのうえで改めて、Somewhereな人とAnywhereな人のリスクの捉え方の違いについて教えていただけますか?
Somewhereな人は、同じ土地で暮らし続けることを想定しているので、時間の捉え方が中長期的になります。
毎日同じ場所の天気予報を見て災害に備えることや、この土地でいかに心地良い生活を送るかといった長い見通しで生きている方にとっては、視点がブレること自体がコストやリスクに感じられると思います。
一方で、Anywhereな人は他の土地に移り住むことも選択肢にあり、他の土地やあり方の情報にもアンテナを張っているので、今住んでいる場所と他の土地を、比較して選ぶことができます。
――学校でたとえるなら、1つの学校にしか通っていないと比較対象がないですし、転校という選択肢もないとなると、“その学校でなんとかうまくやっていく方法を考えること”がリスクヘッジになりますよね。Somewhereな人のリスクヘッジは、そういうことなのかも。
そうですね。反対にAnywhereな人は他の選択肢も持っているので、試してみてうまくいかなかったり、数年後に状況が変わったりしたときに、また考えればいい。
ただ、それぞれの土地に住むことのメリットやデメリットが相対化されていくと、「子育てするならこの土地がいいな、でも仕事はどうしよう?」とか、「この仕事をしたい、ただどの土地に家を借りてどう暮らせば家族が一緒にいられるだろう?」なんていうふうに、選ばないといけない要素と選択肢が増えすぎてしまう。そうなると、自分の中で本当に大事な価値基準は何かということを試されます。
つまり、土地や仕事、生活環境などを「選んでみる」ということをすればするほど、「いくらでも選ぶことはあるからこそ、自分たちはここだけは大事に選ぼう」というポイントが見えてくるんです。
僕らは「絶対にこれ」と言い切れるものをまだ持っていないので、最終的に選びきれなくなるという意味では困りごとが増えているとも言えるかもしれませんが。
――Anywhereな人にとっては、状況に応じて環境を変えられること自体がリスクヘッジになるということですね。ちなみに、アサダさんは何がきっかけでこういった考え方ができるようになったのでしょうか。
やはり20代の頃から、働き方や拠点を相対化することを試してきたのが大きいと思います。たとえば、NPO法人に勤めていたときはアートスペースの運営から発展して「社会運動としてのアート」を仕事にしていましたし、福祉施設でアートディレクターを務めていたこともありますし、もちろん基本はフリーランサーでもあるし、でも現在は大学教員として働いてもいますね。
――かなり選択肢が多い、幅広い働き方をされていますね。
派生した異なる業種の仕事や、役割の違う仕事などをいくつも経験したからこそ、「状況に応じて、柔軟に考え方を変えるべき」という姿勢が自然と身についたのかもしれません。
拠点に関しても、同じ場所に数ヵ月滞在して制作したり、拠点を数ヵ所持って行き来したりしてきました。そうして色々な働き方や拠点を試す、同時に行って混ぜるといったことが、家族のあり方にもリフレクションしているのではないかと。
もちろん、自由度が高い働き方をしている方であっても、家族に関してはコンサバティブな考えを持っている方もいますし、生まれ育った家庭環境や相対化するタイミングによっても違います。
さまざまな働き方や拠点を経験したからといって、すべての人が「Anywhereな人」になるわけではありません。ただ、僕の場合は、こういう生き方が性に合っていたのだと思います。
「いつでも脱出できる」というマインドセットが安心につながる
――お話を伺う中で、アサダさんは変化に強い人なんだなと感じました。
逆の言い方をすると、止まってしまうことに弱い人間なんですよ。逃げる選択肢が絶たれたら、家族においても、働き方においても精神衛生上よろしくない。
もちろん、親の介護が必要になったり、自分たちが病気になったりする可能性もあるので、今後はいろいろと制約が多くなるかもしれません。それでも「何かあっても創意工夫で脱出できる」というマインドセットと、実現するための知恵をできる限り持っておくことは、自分にとってすごく大事なことなんですよね。
それは僕ほどじゃないにしても、一緒に知恵を培ってきたパートナーとも共有できている感覚だと思いますし、だから家族というユニットを一緒に運営していけているのかなと思います。
――複数の選択肢を持って「いつでも脱出できる」と思える状態にしておくことは、アサダさんにとっての「保険」と言えそうですか?
エスケープが保険と言っていいのかはわかりませんが、それはずっと考えていることですね。『コミュニティ難民のススメ』(木楽舎)という本の中でも紹介したのですが、ダンサーの田中泯さんが「いじめを見ている君へ」という新聞連載で「一人になれ、逃げろ」といったことを書かれていたのがすごく印象に残っていて。
それこそ、中学生の頃は自分が通っている中学校を相対化する機会がないので、中学校が自分にとっての世界すべてになってしまうじゃないですか。
「完全にここではない世界」を求めるのは難しいかもしれませんが、フリースクールだったり、普段周りにいないような大人と話してみたりして、少なくとも「ここだけではない」と思えたら楽になるかもしれない。
この感覚が「保険」なのか「処方箋」なのかはわからないですけど、大事にしたいですし、行き詰っている人がいたら違う世界があるよと伝えたいですね。
――ありがとうございます。最後に、アサダ家の今後の計画があれば教えてください。
今は家族4人で住む計画を少しずつ進めています。お互いの生活環境を知るために、僕の大阪の一人暮らしの家に娘たちが1週間来てくれていました。それがクリアできたので、今度は一緒に住もうと。
外から見たら、変化が多い生活をしているように見えるかもしれないのですが、何もかもが変化しているわけではありません。
そういう意味では、僕たちの今回の目標は「家族みんなで住むこと」なんですよ。多くの家族にとっては当たり前かもしれないことを含めて、変化しうる選択肢として持ちながら、その時々のベターなかたちを模索し続けていきたいですね。
おわりに
お話を伺う中で最も印象的だったのは、変化に富んだ生活はリスキーだという自分自身の思い込みでした。
――家族においても、住む土地においても、働き方においても、相対化できる対象を持つことで、リスクを過剰に気にせずに済む。
リスクヘッジとは、今ある当たり前を疑い、その外側にあるかもしれない世界を求めて一歩踏み出すことなのかもしれません。
編集 Huuuu
取材・構成 佐々木ののか
撮影 金本凛太朗
WRITER’S PROFILE
Huuuu
Huuuuはローカル、インターネット、カルチャーに強い編集の会社です。 わかりやすい言葉や価値観に依存せず「わからない=好奇心」を大切に、コンテンツ制作から場づくりまで、総合的な編集力を武器に全国47都道府県を行脚中。 企業理念は「人生のわからない、を増やす」。